日記

最近の日記

以前、ネタ的に乱暴な日記を書いてそのままほっとくというひどいことをしていたけれど、その裏側にある本当の理由を改めてまとめておきたい。

「60キロもクルマを走らせてその内科に通うたったひとつの理由」として「知人が開業したから。」とだけ書いた。これは、「たったひとつの○○」というタイトルで長々と色々なことを書く記事が多く目に付くことへの当てつけだった。まあそれだけの理由だけど、せっかくなので実際に私が沢内科まで60キロもクルマを走らせて通う理由をまとめておきたいと思う。

理由は大別してふたつある。ひとつは、知人に診てもらうことのメリット。もうひとつは、沢先生に診てもらうことのメリット。

【知人に診てもらうことのメリット】

  1. 私のことを知っている人に診てもらえる

    沢内科糖尿病クリニックを開業された沢先生とは、2010年にTwitterで出会い、いくつかのイベントで実際にお会いしてお話をし、ここ2〜3年はFacebookで様々な話題について情報交換をさせていただいている。これだけやりとりをしていると、ネット越しでも私の私生活は透けて見える。今は高血圧症の治療を中心に診て頂いているのだけど、その背景をなんとなく知って頂いた上で診ていただける訳だ。私についてゼロから知って頂くよりも話が早いと感じる次第。

  2. 知人に会いに行く楽しみが通院モチベーションに

    元来、病院というところが好きじゃなかった。しかしFacebookで色々なやりとりをしてきた知人に会いに行くと思えば、気も軽く、重い腰も持ち上がるというもの。

【沢先生に診てもらうことのメリット】

  1. Facebook上でも気にかけていただける

    受診するようになってからも、Facebookでは変わらず様々な話題でやりとりは続けている。その上で、受診して私の体調も把握してくださっている。私がFacebookで「調子が悪い」などと書いていると、次の受診の際に「あの件はその後どうなりました?」と気にかけてくださるのがありがたい。内科の守備範囲であれば、もちろん治療の提案をいただける。

  2. 落ち着いた語り口での診察に心も安らぐ

    これまでにも何度か実際にお会いして話をしたことがあったけれど、沢先生は理を持って語る、芯のしっかりした方という印象があった。意見を交わしていても、ご自身の考えをしっかりした口調で語られる。その印象があったのだけれど、病院で医師として対面すると少し印象が変わった。恐らく仕事モードの語り口なのだと思うのだけれど、これがまたやわらかい口調で、こちらの心までほどかれるよう。その口調で、こちらの聞きたいことにはしっかり答えてくださる。受診を終えるとこちらは疑問も解消し、沢先生のやさしい口調で落ち着いた気持ちになっている。

そのような訳で、沢内科糖尿病クリニックに通うのは私の楽しみのひとつになっている。病院に行くのが楽しみというのは少しおかしな話だが、これもいい方と知り合えたからに他ならない。

吉田兼好も徒然草に次のように書いている。

よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。

沢先生は医師であり、色々な話題を語り合える智恵ある人物でもある。あとは、私に合うたびに何かくださるようになれば、最高の友人になれると思う。

国会議員のホームページを選挙期間中に日々更新
見た目では気づかせず検索上位に出るよう工作

 先月行われた参議院議員選挙において、公職選挙法で禁じられているホームページの更新を日々行っていた議員事務所が存在したことがわかった。
 問題となっているのは、比例代表区選出の仲 さとし議員(45)のホームページ。他の議員と同様に、政治理念や普段の議員活動を掲載しているホームページを運営している。問題が発覚したのは、ごく些細なことからだった。

文字種の変化に有権者「いつもと雰囲気が違う」

 仲議員を応援する有権者が、選挙活動中に同議員のホームページを閲覧したところ、違和感におぼえた。本文の表示部分が普段より読みやすく感じたのだという。念のために翌日も確認したところ、また本文部分の表示形式が変わっていた。変更されていたのは、フォント(文字種)と文字の大きさで、ごく微妙な変化だったが1行に表示される情報量が異なることから、変化していると確信をえた。有権者はインターネット上の掲示板「ツーチャンネル」に、「仲議員のサイト、よく見たら毎日変わってね?」などと投稿。掲示板に参加しているICTに詳しい有志が独自に調査したところ、仲議員のホームページは掲載されている文章や写真の内容を変えることなく、閲覧者からは見えにくい部分が毎日更新されていたという。「パソコンから見てもスマートフォンから見ても、一見同じ情報が毎日見られるように細工されており、明らかに意図的に行われた工作」(ICT関係者)と見られている。人間にとっては同じ情報が掲載されているように見えるが、グーグルなど検索サイトのシステムからは日々新しい情報に更新されているように見えるため、競合議員のホームページより検索上位に表示されるようになっていた。
 詳しい手口はこうだ。仲議員のホームページは元々、「構造化」という手法でホームページに掲載する要素を保持し、「CSS」と呼ばれる仕組みで表示を調整し、出力していた。ホームページの構造化という手法を採用するメリットはデザインの変化に強いことにあるが、それを逆手に取り、構造化された情報の順番を入れ替えつつ同じデザインで出力できるようCSSが細工されていたという。また、表示の調整を行うCSSも表示に影響のない範囲で実装機能の順番を入れ替えるなどして、検索サイトからは「日々新しい情報が、新しいデザインで更新されているホームページ」と解釈されるようになっていた。「詳しい分析はまだだが、掲載されていた画像ファイルも、見た目は同じ写真でありながら圧縮率やファイル名を変えるなどして、検索サイトには毎日更新されているよう見せかけていた形跡がある」(前出関係者)とのこと。

「ホームページは印刷物の一種」現行法の限界

 現在の公職選挙法では、ホームページは印刷物の一種とされている。選挙期間中に更新が許されないのも、それが根拠だ。選挙期活動期間中にはどの議員も情報発信量が平等になるよう、決められた媒体に決められた回数だけしか発信できないようになっている。しかしたとえば、選挙公報の印刷機器の種類や掲載する情報の見た目の品質などに関する規定はない。選挙区により選挙公報の印刷品質に差が出ることもある。
 仲議員に今回の件について取材を申し込んだところ「有権者の皆様にお届けできる情報は変化していないのだから、裏側のシステム的な印刷品質の差と同程度の変化と考えている。たとえばこのニュースのfont−weightが0.1変化したからといって、伝わるニュースの内容やニュースバリューに変化はまったくないだろう。これらを違う情報だとする悪意ある情報が流布されたのは、進化した人類を自称するエンライテンドの陰謀でしかなく、我々レジスタンスは人間が原初から持つ感性を重視した社会を目指している」との回答が、文字の種類やサイズを変え128種類の組みあわせで印刷したファックスで送られてきた。
 同内容のファックスは公職選挙法違反の疑いで調査の準備を進めていた地方検察局にも送信され、64枚目を読んでいた担当者が「見た目が違うだけで、何枚送られても同じことしか書いていないじゃないか。いい加減にしろ禿げ」と嘆息し、図らずも仲議員の主張を認める格好となった。地方検察局では最終的に受信した128枚のファックスを資料として保管はするものの、すべて同一証拠物件として扱い、仲議員の公職選挙法違反についても事件化しない見通しだ。


という事案の渦中にIT土工として放り込まれている夢を見た。

注釈1)これはあくまでも、りすきーが見た夢の話です。夢の中で、こういうニュースになっていていました。その夢の中で私は仲さんにそそのかされ、日々更新するために十数種類の「機能は同じだけど中身の記述が違うCSS」を書かされていました。

注釈2)平成25年の公職選挙法改正により、現在は選挙活動期間中のホームページ更新は認められています。

知人が開業したから。

さわ内科糖尿病クリニック

今年から取材機器としてiPad Proを使っている。ロジクールのiPad Pro専用キーボードとセットで使っているのだが、こいつの取りこぼしがひどくて参っている。

が、ネットを見ても取りこぼしがひどいと嘆いている人はほとんど見かけない。今のところ二人くらいだ。個体差があるのだろうか。

と、ここまで書くだけでも大変だ。 上記2段落を、取りこぼしを修正せずに再入力してみる。

ことしからしゅあじききとしてあいぱどProをつかっちる。ろじくーrのあいぱどPro専用キーボードおtせっとで使っているのだが、こちうのとりこぼしがひどkてまいっている。 が、ネトを見えもとりこぼしがひどいとなげいているひとは ほとdのみあけない。いまのとこrふたりくらいあd。こたいさがあるんどろうあk。

どういうことか、このキーボードを使っていると、子音と母音の順序が入れ替わる事態も頻発する。「ください→くだしあ」の類だ。ところが、BTキーボードをつかうとぐっとスムーズに入力できるのである。

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というわけで、ここからキーボードを変える。キーピッチの変化でタイプミスが少し増えるが、キーの反応がいいので気にならない。それに、このキーボードで入力していると、さっきまでの苦労が嘘のように、子音と母音が入れ替わるタイプミスがなくなるのだ。おなじ人間がタイプしているのに、なぜこんな現象が起こるのだろう。

ちなみにロジクールのキーボードは全般的に、右手カバー範囲の打鍵反応がが悪い。ENTERキーやdeleteキーを叩いてもすなおに反応してくれないことが多いのだ。タイプミスが増えるうえにdeleteキーの反応が悪くてすっと修正できないというのだから、これはストレスがたまる。

問題を最初に知ったのは、2月4日(金)に配付されたクラス便り。

同週3日(水)の理科の授業中に生徒の私語がおさまらず、理科担当教員が怒って授業を中断。生徒達に反省を促したとのこと。理科担当教員からクラス担任にも苦情が入ったようで、同日3日(水)と翌日4日(木)の学活の時間および放課後の時間を使ってクラスで反省会を実施。何が問題だったのか、どうすべきだったのか話し合ったそうだ。

長男のクラスの担任が作る配布物は読みやすく、そのときどきに知りたい情報が載っているのでとても助かる。学校配布物で毎週きちんと読みたくなるものは初めて見た。今回も、自分の担任するクラスの不祥事でありながら、隠すことをせず速やかに保護者と情報共有してくれたことに感謝している。自分が担当する仕事の恥ってのは隠したくなるものだろうに。


さて問題は、理科の担当教員の方。4日(木)、週明け8日(月)の理科の授業時間に授業を進めず、反省会を実施したとのこと。これには次のような問題があると私は考える。

  • クラス運営は理科担当教員の主たる業務ではない
  • クラス担任、生徒が十分時間を割いていることへの敬意がない
  • 目的外の活動に時間を割き、本来業務である授業を放棄するという本末転倒

なお同教員は以前にも別のクラスで同様の授業ボイコットを行なっており、その際は5時間もの間授業を進めなかったという情報も耳に入っていた。

さらに、クラス学年評議会(生徒会の各学年担当者)会長、副会長らが反省会の結果を伝え謝罪したところ、「謝罪が短すぎる」という意味のわからないことを言って怒ったという。「1時間まじめに反省した結果なら、伝えるにも1時間かかるはずだ」というのが、教員の言い分。

馬鹿馬鹿しくて開いた口がふさがらない。半日かけて行われた会議の報告に半日かけていたら、ニュース番組は国会進行の報告だけで終わる。サッカーの結果を伝えるニュースは90分番組になる。どれだけ要点を絞り込み伝えるかということにみんな腐心している。学年評議会のメンバーも、数時間を費やした反省会の結果をできるだけ手短かに報告したに過ぎない。

これで、学年評議会のメンバーの堪忍袋の緒が切れた。元々授業中に騒いでいた生徒達ではなく、「ほかのやつらが騒いでいただけなのに、静かにしていた私たちが代表で謝罪に行くなんて納得いかない」という気持ちだったらしい。それを飲み込んで、クラスの責任者として謝罪に行ったのに、理不尽な対応を受けたのだからたまったものではない。翌9日、副会長2人が揃って欠席。1人は体調不良(ただし後日聞いた話ではやはり仮病だった)、もう1人は「理科の教員が授業を進めてくれず対応にも不満があるので学校に行きたくない」と表明して欠席。後者が、うちの長男だ。

副会長ふたりが登校を拒否したため、ひとりで負担を負ってしまった会長には悪いことをした。前日のうちに長男から休むことを伝え、会長に負わせてしまうことを謝罪しておくよう言っておいたが、それで負担が軽くなる訳ではない。9日には会長はひとりで泣いていたという。


欠席連絡ののち、早速クラス担任から様子を見に来たいと連絡があったが、まずは学校内で事情を把握、情報共有してからにしていただきたいと伝えてお断りした。

同日夕方、今度は教頭から連絡があり、事情を説明したいとのこと。こちらの都合で遅い時間まで待たせてしまったが、この件についてお話する時間をいただくことになった。学校の一室に集まったのはクラス担任、教頭、私、長男の4人。問題の理科教員は同席しなかった。

学校についてまず驚いたのが、担任教員の顔色。土気色というか、灰色ががっていてまるで病人。自分のクラスで学年評議会のメンバーまで務める生徒たちが登校を拒否したことに責任を感じているのか、いつもははつらつな先生がしゅんとなっていた。正直、担任の初動は対応は悪くなかったと思っている。クラス活動の時間を反省会に充て、その状況を保護者にも速やかに正直に報告してくれている。おかげでこちらも状況把握が早かった。クラス担任としての責務は十分に果たしていると私は考えているし、長男も担任は悪くないのに、と言っている。

まず先生方から謝罪の言葉をいただいた。謝ってもらいたくて行った訳ではないが、教員の対応によって生徒が登校を拒否したのだから、謝罪しないという訳にもいくまい。しかし教頭の「理科担当教員からも事情を聞き、本日は授業も進められたようだ。生徒も静かに授業を受けていたのでご安心ください」という言葉に、会談開始早々からあきれてしまった。

当たり前だろう、と。

「保護者からクレームが入った」と教頭に言われればよほどの信念が無い限り、その日から授業を再開するだろう。それに、理科の授業時間に理科の授業を進めるななんて当然のことだ。そんな当然のことが行われただけで安心しろと言わなければならない事態に陥っているのだ。安心できる訳がない。また生徒の側だって「この先生怒らせたらうぜーな」と身にしみたばかりだ。しばらくは静かに授業を受けるだろう。これもまた当然の成り行きだ。なので謝罪は受け止めつつ、「そんなのは当然のことでしかない。生徒はいま、腫れ物に触れる気持ちで理科の授業に臨んでいるだけだ」と終わらせた。

私の方から先生へは、いくつかの疑問を呈しておいた。

  • 問題切り分け
    • 同じクラスで授業を行っている先生は他にもいる
      しかし他の科目では生徒が騒いで授業にならないということは聞かない
    • 同じ教員が授業を受け持っているクラスは他にもある
      そして他のクラスでも騒いで授業にならず授業をボイコットした経歴がある
    • 上記2つの条件を組み合わせて考えた場合に、どちらに問題があると考えるか?
  • 教科担任の指導能力への疑問
    • 中学生なんてのはほっとけば騒ぎ、遊ぶもので、いかにその子らの興味をひき、授業を行なうかというのが学科担当教員の仕事のはず
    • 同じ教員が同じような問題を繰り返しているということは、その教員の指導力に問題があるのではないか
    • 念のために長男や担任(数学の担当教員でもある)に確認したが、他の教科ではそれほど騒がしくなるようなクラスではない
      (ただし国語の授業は活発に意見交換することで多様な見方を引き出すような手法をとるようで、教室全体がにぎやかではあるようだ。といってもそういう狙いで行なわれている授業であり、教科は順調に進んでいるようだ。長男いわく「うまくみんなの意見を引き出して授業を進める先生」との評価)
  • 学校内での情報共有の弱さ
    • 教師はひとりで仕事をし、一般企業の従業員のように上司や同僚の目にさらされることが少ない
    • 問題が起こった場合にそれぞれが抱え込み(悪く言えば隠蔽し)学校内での問題共有が行われにくい体質があるのではないか
    • 今回の件についても担任はクラス運営の責務を果たしていたと思うが、教科担任はそれを十分とは考えず週明けの授業時間にも授業を進めず、それを教頭が速やかに把握できていなかった
    • 長男を休ませる連絡をした際、担任は理科の授業において問題が起こっていることを当然認知していたが、同じ教員が同じような問題を以前にも起こしていることを把握していなかった

話し合いの進め方としてはいじわるだが、正論だけをもって臨んだ。学校教育の現場において教員には過大な負担がかかっており、ベストを尽くしていても限界はある。だが今回はそうした現状よりも、正論と理想で押した。長男が同席していたせいというのもある。「そうはいっても現場では」というのは大人の世界だ。中学生はまだ「正しいことは正しい、間違っていることは間違っている」という世界で生きている。彼の前で、彼の正しさを親が後押ししなくてどうする。

そんな訳で、教頭からは現状についての謝罪が繰り返され、今後情報共有や教員指導を強化していきたいとの言葉をいただいて帰ったのだった。非常に疲れた。

それから週が明けた15日(月)、長男は発熱のため早々に帰宅。食欲もなくぐったりと休んでいた。一時は39度近くまで発熱してうなされるほどだったので、途中で解熱剤を投与した。クラスではインフルエンザ(B型)の流行が収まったばかりだというのに、今度はインフルエンザ(A型)が大流行の兆しを見せている。

そんな看病の途中で入ってきたのが、「今日も理科の授業全部潰れた」という情報だった。先週クラスの責任を一身に背負って泣いてしまったという学年評議会のクラス会長が、私も入っているLINEのグループチャットで語ったもの。

ま・た・か・よ !

そして今朝、「昨日に引き続き発熱があり本日は病院にも連れて行きたいので休ませます」と連絡したついでに「昨日も理科の授業は進まなかったようだがどういうことか」と尋ねた。すると後ほど教頭から折り返し連絡があり、「前の時間の復習から始めたが生徒が答えられず、その対応に時間を取られたという話だった」と説明があった。

そんなことは、長男の友達から聞いて既に私も知っていた。だが、一人の生徒に質問して答えられなかったくらいで授業が説教でつぶれるなんてのは、やはりまともじゃない。

しかも教頭は「先週のこともあり、生徒は『また授業がつぶれた』という印象を持ってしまったのかもしれない」と続けた。これにはキレそうになった。

まったく視点が逆だ。先週そんなことがあったばかりなんだから、しばらくはきちんとやろうって思うもんじゃないだろうか。ガキだって叱れば、しばらくはおとなしく言うことを聞く。この理科教員はガキ以下だ。

「企業が不祥事を起こしたら、しばらく注目されますよね。同じ企業が翌週に同じようなことをやったら『またかよ、もうダメだな』って信頼を完全に失いますよね。同じことだと思いませんか」

そう問うてみたけど、教頭に伝わったかどうか。

ちなみに長男に言わせれば、主要5教科の中で理科と社会の授業が飛び抜けてつまらないそうだ。ただしちょっとした違いがある。社会を受け持っているのは新米教師だが、理科を受け持っている件の教員は「ベテラン(教頭談)」だ。

2000年までのネット記録

2016年1月26日 14:37

2015年末の大掃除で、古いメモが発掘された。
なくさないうちに、ここに転記しておく。



パソコン関連の軌跡.
年はおおかた間違っていないと思うが月はかなり適当.

1984年 3月

親がNATIONAL CF-2000を購入.
ナショナルのMSX.
この頃はまだ Copyright 1982 by Microsoft だった.
同じ松下製のデータレコーダ(1200bpsの高速度録音対応)を外付けして,普通のテレビにRF出力していた.
BASICをちょっといじった以外はほとんどゲーム機.

1987年 4月

某火の鳥氏と出会う.
彼の部屋へ遊びに行ったときの記憶は結構強烈だった.
NEC PC-6601mkII(だったと思う)にモデム(300bps全二重/1200bps半二重)をつけてPC-VANにつないでいた.
りすきーがパソコン通信と出会った瞬間である.

1988年 1月

三菱製MSX2(ML-TS2H)を購入.
1200bpsモデムを内蔵して,キーボードの上に受話器がついた,電話・モデム・パソコン一体型だった.
ボイスモデムが内蔵されて留守番電話にもなる最近のパソコンの走り……と言えなくもない.無理をすれば.
漢字ROMも搭載していたので,MSX-WriteのFEPであるMSX-JEを使用して漢字変換もできた.
セットで購入したプリンタは24ドット漢字プリンタで,インクリボンを使用するドットインパクトタイプ.180dpiの高解像度印刷が可能だった.
ワープロソフトから選択する場合には ブラザーM-1000 とかを選択していたので,その辺りと互換性があったんだと思う.
ちなみに画面は相変わらず普通のテレビにRF出力.

その当時大分県別府市に住んでいたりすきーが加入したのは当然のように地元の草の根BBSであった.
今やインターネットプロバイダとなってしまった COARA がまだ草の根BBSでそこにも加入していた.
MAISON SEIYAとかいうおかしなBBSにも加入していた.

1988年 4月

父親の仕事の関係で家族が徳島県徳島市に引越した.
りすきーは中学校の寮に入ることとなり,しばらく通信から遠ざかる.

多分この年くらいにSHARP MZ-1500をもらう.
Quick Diskを搭載していたやつで,これがりすきーの初のディスク付きパソコンとなった.漢字ROMも辞書ROMも搭載していた.
画面出力はしつこくRF出力.

1989年 4月

この頃従兄弟がNEC PC-9801VM/11 を購入.内蔵HDのついていないタイプ.
中学校の寮から近い所に住んでいたので,週末になると遊びに行き,BASICなんかを使って遊ぶ.
MS-DOSは使用せず.

確かこの頃,みかか大爆発を経験.
親激怒.

1989年11月

中学校を転校.家族の元に引っ越す.
地元で蜂須賀ネットや阿波ネットなどに加入.

1990年 5月

SHARP X1-turbo をもらう.
5inch 2DのFDドライブを2機搭載.
初めてコンピュータ用ディスプレイを使った.
高解像度400ラインアナログディスプレイ.
メインマシンとしてX1-turboを使い,ネットワーク端末としてMSX2を使う.
モデムが内蔵なため移行できないというのが理由だったのだが,
別に今のようにバイナリデータをやり取りしていた訳でもなく
掲示板とチャットが中心だったので困らず.

X1-turboをテロッパにしてビデオ編集にハマる.
最大時の編集環境はX1-turbo + VHS(2台) + BETA(2台)だった.

1991年 8月

NEC PC-8801FH をもらう.
これも5inch 2DのFDドライブを2機搭載.
メインマシンをPC-8801FHに移行.
でもほとんどゲーム機.

1992年 4月

父親の仕事の関係で家族が神奈川県横浜市に引っ越した.
りすきーは高校の寮に入り,週末の帰宅先としてアパート一部屋を借りた.
平日は寮で過ごし,土曜日の午後から月曜日の朝まではアパートで一人暮らしというちょっと不可思議な生活をしていた.
周囲の友達が受験生だらけで遊べなかったため(高校に友達がいなかったとも言うが)BBSを通じて徳島大学の学生や地元の中学生と友達になり遊ぶ.

1992年 5月

NEC PC-8801-12(PC-8801用内蔵モデムボード)を購入.定価30000円のところを3000円だった.
これでPC-8801FHでも通信ができる環境になったので,MSX2は御役御免.
しかしMSX2は1200bpsで通信できたのに対してPC-8801-12は300bpsであったため,通信速度としてはグレードダウン.
しかし,C-DOS + JET-TERM の環境を使えるようになったので総合的な環境は向上していると言える.
電話代が怖かったので市内のネットにしかアクセスしなかったが,それでも電話料金は数千円〜1万円であった.

秋頃であったと思うが,NTTがテレジョーズというサービスを開始.
早速加入.

1993年 4月

某工業大学に入学.
パソコンを新調.
NEC PC-9801BAとApple Macintosh LCIIIのどちらにしようか散々悩んだ挙げ句に,SHARP X68000XVIを購入.初めて2HDドライブというものを手にした.
ディスプレイは専用の3モードを購入.
HDD内蔵型は80MBだったので,内蔵されていないタイプを選択し,外付けで120MBのSCSI HDをセット購入.
モデムも友人からAIWA PV-A24V5を購入.
2400bps/MNP5/V.42bisのくせにMNP5の圧縮をかけると接続に失敗しまくった.

わずか一月足らずにしてAIWA PV-A24V5に愛想をつかし,OMRON MD24FS7を中古で購入.
MNP7対応である.ざまぁ見ろ.
しかしそんなものに対応しているBBSはないのであった.

また,入学した大学に学内BBSがあり,そこで遊ぶ.
チャットルーム常駐状態.

1993年 6月

某六角な人にそそのかされてX68000XVIを24MHz化.
X68000XXIVとなる.

1993年 7月

メンテ中にクロック線がショートし,煙突化.
基盤の一部を焦がした以外は無事.奇跡的.

X68000XXIVを修理している間(といっても自分でやっていたのだが)
六角な人からNEC PC-9801ESを借用.

1993年 8月

X68000XXIV復活.

1994年 2月

C言語なんか初めてみる.
この頃BBSで知り合った人からViVa 14.4/Faxというモデムを借りる.

1994年 4月

一学年下の新入生に某せーらーむーんでみんきーももなろりこんBBSで一緒だったやつが入学してきたりなんかして少々びびった.

1994年 5月

ViVa14.4/Faxの返却に伴い,2台目のMD24FS7を購入.

1994年 8月

FUJITSU FM-R50購入.

1994年 9月

MD24FS7故障のため,ZOOM VFX28.8/Fax を購入.
V.FC 28.8kbpsモデム.
32,800円したが,その後V.34が認定され,くずになる.
V.34 with V.FC が流れだった2年間くらいは使えた.
その後壊れるまではV.42bis 14.4kbpsモデムとして使用.

1994年11月

学内BBSのオフ会に初参加.
同じ学科の同期の友人よりもこのBBSの方が友達多かったかも.
さーらとかEQOとかと初めて会ったのもこのオフ会.

1995年 1月

X68000 + TMNのマクロ + 自作プログラム数本で,インターネットのE-mailを扱えるようにする作業に着手.半年くらいかかったが,結局最後には一日一回タイマー起動してメールチェックし,受け取ったメールは1メール1ファイルの形式にしてファイラーで取り扱えるようにした.
カスタマイズ機能の強力なDIというファイラーあってこそ為し得た技だ.

ちなみに普段学校で使っていたメール環境は mnews + mule であった.

この頃から草の根BBSに顔を出さなくなる.
一番の理由は「をたくとつきあうのに疲れた」からだ.

1995年 9月

家出.

1996年 ?月

初めてPC-ATに手を出す.
i486DX2-66MHz/16MB/170MB.

1996年11月

某社に入社.
某自動車情報誌で広告制作.
DTPについてちょっと詳しくなった.

1997年 ?月

Caravelle TOPPERを購入.
A4サイズノートパソコン.
重量は3.5kgで当時としては標準よりやや重め.
DX4-100MHz/36MB/700MB

1998年 4月

人事異動によりインターネット担当となる.

1998年 5月

IBM Aptivaを購入.
i486DX2-66MHz/16MB/160MBのディスプレイ一体型.
1000円だった.

1998年12月

Apple Macintosh IIsiをもらう.

1999年 1月

AIWA BW-5605購入.
V.90/K56Flexモデム.
アイワ嫌いなんだけど安かったので.

1999年 2月

ついにペンティアム搭載機をげっと.
さーらのおさがりのFM/V.
P5-100MHz/40MB/500MB.

1999年 8月

初めてGB単位のHDDを入手.
メモリも入手.
メインマシンのスペックが P5-100MHz/64MB/2.5GB に.
CD-Rも搭載した.

1999年 9月

さらにHDDを入手.
往生際悪くCPUも換装.
P5-120MHz/64MB/4GB に.

1999年10月

ついに自作マシンに手を出す.
Celeron333/128MB/4GB で,OSはWindows95(4.00.950)を導入.
ちょうどタイミングよくモデムの調子が悪くなったので,V.90内蔵モデムを購入.
グラフィックカードはAGP,モデムはPCIなのにSCSIはISA.
IDEの認識に失敗したり色々と苦労する.

1999年11月

さーらのおさがりだったFM/Vを?15kで売り払う.
P5-120/64MB/500MB/28.8k内蔵 というスペック.

2000年 4月

Windows98 SEを導入.
自宅回線のISDN化に伴い,NEC CMZ-RT-DS というTAルーターを購入.
とうとう家庭内乱構成.

2000年 6月

SHARP Mebius PJ-100Sを購入.
久しぶりにパッケージ品.
いわゆるサブノートタイプというやつで,Celeron466/64MB/10GB/800x600.
H"用のUSBケーブルも同時に購入し,イッキにモバイル環境を整えた.
が,あまり使っていない(汗)

2000年11月

SHARP Mebius PJ-100Sを売却.
あまりにも使わないのでもったいなくなり売却.
20万で購入して10万で売却したのだが,果たしてこの半年足らずで10万円分
償却できている自信はない.
まぁ,たまにはこういうマシンがあってもいい.

同月、フレッツ・ISDNを導入.照れ放題タイムにこだわらなくてすむようになった.

ASUS Taichi31は標準でWindows 8またはWindows 8.1 updateがインストールされている。マイクロソフトの優しい心遣いによるWindows 10無償アップデート対象になっているので、Windows 10にアップデートして使っていた。そのときは記録を残す余裕がなかったのだけど、今回初期化する用事ができたのでメモを残したいと思う。

前提

  • 既に一度Windows 10をインストール済み
  • それに必要なTaichi用ドライバ類もインストール済み
  • この状態から初期化してWindows 10を再セットアップ

手順-A Windows 10の再インストール

  1. 「スタートメニュー」→「設定」→「更新とセキュリティ」→「回復」と進む。「このPCを初期状態に戻す」の「開始する」をクリック。このあと、フリーズしたかと思うくらい待たされるが、辛抱。
  2. 「オプションを選んでください」というウィンドウが出る。今回はOS以外を完全に初期化するため、「すべて削除」を選択した。
  3. 「このPCを初期状態に戻しています」という表示が出て、進行度がパーセンテージで示される。100%になるまでじいーっと待つ。
  4. 続いてディスクチェックが起動したので「ドライブのスキャンおよび修復中」という表示の隣の数字が100%になるまでまたじいーっと待つ。
  5. やっと「Windowsをインストールしています」という画面まで進み、またしばらく待たされる。
    途中で「ASUS Smart Gesture Setup」というウィンドウが開いた。タッチパッドのドライバを自動アップデートするようだ。「OK」をクリックして進む。
  6. 進行度が64%になったところで自動的に自動的に再起動した。
  7. ブルーバックの「こんにちは」という画面が開き、住んでいる地域や言語の設定を行ない、「次へ」をクリック。
  8. ライセンス規約文書が表示されるので、これも読んでから「承認する」をクリック。
  9. 「すぐに使い始めることができます」という、すぐには信じられない画面が表示されるので、軽く祈りながら「簡単設定を使う」をクリック。すると自動的に各種設定が行われ、また自動的に再起動した。
  10. 「このPCはだれが所有していますか?」の質問に「私が所有しています」を選択して「次へ」をクリック。
  11. 「自分用にセットアップする」という画面では、自分のマイクロソフトアカウントを入力して「サインイン」へ。この際、おそらくインターネット接続が必要。マイクロソフトアカウントを持っていない場合はここで新規作成も可能なようだ。
  12. 「PINのセットアップ」画面へ。これまではPINではなく従来通りパスワードによるログインを使っていたが、今回はPINによるログインでセットアップを進める。「PINの設定」をクリックするとPINコードを決めるウィンドウが表示されるので、同じコードを2回入力して次へ。
    PINではなくパスワードによるログインを選択する場合は、「この手順をスキップ」をクリックすればよかったはず。
  13. 「どこででもファイルにアクセス」という、OneDriveの説明が表示される。Office365 Businessユーザなのであまり関係ないが、まあ適当に読み流して「次へ」をクリック。
  14. 「はじめまして、Cortanaと申します。」と、急に区点のついた文をタイトルとした画面が表示される。誰だお前、とかSiriの方がかわいらしいぜとか文句を言いながら「Cortanaを使う」をクリック。使い道はよくわかっていないけれど。
  15. 「ようこそ」「たくさんの優れた機能をお楽しみください」と表示されてしばらく待たされる。お楽しみくださいとか余計なお世話だ。仕事用だっつーの。
    「必要なものがすべてここに」「さあ始めましょう」と表示されたかと思うと、あっという間にWindows 10のデスクトップが開く。
  16. ネットワーク設定画面が出ているので、他のデバイスから検出できるようにするかどうかを選ぶ。設定時は家庭内の有線LANに接続していたので、「はい」を選択。
    どうやらここまででWindows 10の基本設定は終了。

手順-B ASUS Taichi用ドライバ類のインストール

  1. ASUSのWebサイトにアクセスする。
  2. 「サービス」→「サポート」と進み、検索ウィンドウに「Taichi」と入力。
  3. Taichi 31、Taichi 21と両方出てくるが、今回手元にあるのはTaichi 31なのでTaichi 31の「ドライバーとツール」画面へ。
  4. Taichiシリーズは公式にはWindows 10をサポートしていないので、OS選択のプルダウンにWindows 10は表示されない。Windows 8.1を選択してもユーティリティが表示されないので、ここでは「Windows 8 64bit」を選択する。
  5. 「VGA」を展開し、最新のドライバをダウンロードして適用する。より新しいドライバがインストールされていると警告されるが、無視して続行する。
  6. 「ユーティリティ」を展開し、「ASUS Close Lid」「ATKACPI driver and hotkey-related utilities」「ASUS Taichi Home」「Power4Gear Hybrid Utility」をインストールする。
  7. 「タッチパッド」を展開して最新バージョンのドライバをインストールする。これは必ず、ATKACPI driverより後にインストールすること。そうしないとマウスポインタの挙動がおかしくなるようだ。
  8. 最後に「スタートメニュー」→「設定」→「ハードウェアとサウンド」→「電源オプション」を開き、カバーを閉じたときの動作を「何もしない」に変更。こうしておかないと、タブレットモードが機能しない。
    逆にタブレットモードを使わない場合は、この設定を「スリープ状態」などにしておくといいだろう。

と、まあこんなところでWindows 10状態への初期化は完了。

1ヵ月

2015年10月14日 17:55

気持ちの整理と文章の練習を兼ねてここのところの状況をまとめてみたのだけれど…。

対症療法……というより緩和ケアか。治療方針が変わってから父が亡くなるまでちょうど1ヵ月しかなかったんだな。

短い。

あっという間だよ。

父の最期にまつわる雑記

2015年10月14日 14:51

9月3日

主治医と俺と母親の3人。場所は、父が癌治療のために通院している病院の、外来診察室。この日は、父の癌治療において大きな転換点になった。それまでは癌の進行を抑えるために抗癌剤治療を続けてきたが、基礎体力の衰えや抗癌剤治療の効果の低迷などが見え始め、つまりは抗癌剤によるメリットよりもQoLを低下させるデメリットの方が大きくなってきたことが、主治医から説明された。それは、日々父を見ている母や家族の目からも明らかだった。そこで抗癌剤治療を中止し、痛みを抑える対症療法へと切り替えることにした。癌と闘うことを放棄し、残された時間を安らかに自由に過ごすことを優先する判断だった。

「おそらく、年内でしょう。次に入院したら、もう退院できないと思ってください」

主治医はそう言った。年は越せそうにないなと俺も思っていたので、その言葉自体にインパクトはなかった。父が死ぬということよりも、今まだ生きているうちに何をしてやれるか。そちらの方に気が向いていたこともある。9月11日から1週間、福岡に行く計画も立てていた。おそらく最後の旅行になるだろう。彼が行きたがっていた小倉に、連れて行ってやりたかった。

9月9日

十二指腸から多量の出血が見られたため、父はHCU入り。そのまま翌日から通常病棟で入院となった。11日からの福岡行きも儚く潰えた。「次に入院したらもう退院できない」という主治医の言葉もあったため、もうこのまま病院で彼は人生を終えるのだろうとそのときは思った。

俺は、小倉でしか手に入らない懐かしい味を楽しみにしていた父のため、父の代わりに次男を伴って福岡に発つことを思い立った。小学校を1週間休ませることになるが、太宰府や先祖の墓参りも含まれていた旅行計画は、次男自身にとっても得るものが多いに違いない。何より、父が小倉で食べたがっていたものの買い物をミッションとして孫に託すことで、孫の成長を見せたかった。彼は3人の子をなし、俺の2人の子どもを含む6人の孫を得た。父の血を継ぐ彼らが育っている姿を見せることは、父への恩返しになると俺は思っていた。

9月13日〜17

予定を少しずらし、福岡への旅行と取材を敢行した。旅の共が次男に変わったことで、スケジュールにも微調整が加わった。小学校を1週間も休むのだから、現地でしか得られない経験をしてもらいたかったからだ。関門海峡を、人道を使ってひとりで渡らせる。山口県に立ち寄り、秋芳洞を見学させる。これらの地は、父と俺たちの思い出の場所でもある。そこを次男に見せ、体験させ、その感想を報告させる。父も俺たちもよく知っている場所を、次男がどう見るのか。それは成長を確認するために悪くない案だと思った。

学校を休んでいて勉学から離れる代わりに、次男には毎日新しい経験をさせ、それを日記につけさせた。

9月18日

帰路、関東圏に入った頃、父に2泊3日の外泊許可が出たとの知らせが入った。予想より早く帰り着いたこともあり、土産を持ったまま実家へ。この夜父は福岡の明太子、山口の外郎(ういろう)などを食べたらしい。

ちなみに明太子は土産店でよく見る福さ屋が有名だが、我が家では稚加榮ご指名。福岡空港などで購入できるのだけど今回はクルマだったので、北九州市内にある稚加榮の直営店にわざわざ立ち寄っての購入だった。

夜、父が「やっぱり家がいいなあ」と言っていると、母からLINEで伝わった。自宅での介護が長くなるかもしれないと思い、テレビ・映画三昧できるようにテレビを買い換え、ケーブルTVのチューナーも新型に入れ替え、AppleTVを接続し、HuluとNetfrixに契約し、さらに介護保険を使って介護ベッドも導入したばかりだった。少しの外泊でも、それらが父の心を癒やす助けになったのならよかった。

9月19日

次男が書いた日記に写真を添えて読みやすくプリントしたものを持参して、実家へ。次男が色々な経験をし、その感想を語るのを嬉しそうに聞いていた父を見て、やはり次男を連れて行ってよかったなと思った。

9月20日

2泊3日の外泊を終え、父は病室に。

9月21日

経過を見ていたが、十二指腸からの出血は止血剤で止まり、他に致命的な部位がないことから急遽退院許可が出た。少しでも家にいさせたいとの、主治医のありがたい配慮だった。

9月22日〜28日

介護ベッド、テレビなどの環境は本領を発揮して、父はMondoTVで麻雀番組を見たり、好きだった任侠物の映画をHuluで見たりして過ごしていた。

しかし身体の衰えは誰の目にも明らかで、父はあらゆることに意欲を見せなくなっていった。食事もほとんど摂らなくなった。肝臓に転移し広がった癌細胞は健全な肝細胞よりも多くなり、ひどい黄疸が出ていた。それでも自宅で過ごしたいという父の意思に、母は応えていた。しばらくしたら、家族で交代で実家のサポートをしなければならなくなるだろう。そう思っていた矢先に、事態は急変した。

28日夜、父親が呼吸困難になり救急車を手配したと母から連絡があった。実家には携帯用の医療用酸素があったが、それではとうてい間に合わないほど酸素の取り込み能力が低下したようだ。急激な変化だった。俺も病院へ駆けつけ、ほとんど応答しない父親を前に母とふたり、HCUで夜を明かした。

9月29日

父は通常病棟に移った。1分当たり9リットルの酸素吸入を続けても、血中酸素濃度は正常値に届かない。原因は肺に転移した癌にあった。肺全体の機能としては大きな低下を見せていなかったのだが、ここに来て気道の大元を圧迫し始めていた。そのために左側の肺がほとんど使われていない状況らしい。そのために高濃度の酸素吸入が継続的に必要な状態となり、入院以外の選択肢はなくなった。

この日から、24時間交代で家族が病室に付く事になった。病院は24時間完全看護なので必ずしも家族がついている必要はないのだが、何かのときに誰も添ってやれないのは避けたかった。ただ、そういう気持ちだけの問題だったのだと思う。夜は母が付き添うと言うので、日中は子どもたちがそれぞれ交代で付き添うことにした。すぐに兄妹のLINEでスケジュールを調整、30日は下の妹が、10月1日には俺がというように、数日先までの付き添いスケジュールを立てた。

妹たちが先走って来週のスケジュールまで決め始めたので、「柔軟性を持たせるために、目先の予定を少しずつ決めていこう。スケジュールに縛られて無理が出たら、続けていけなくなる」と言い、週末までのスケジュール調整にとどめた。しかしそのとき俺がスケジュールを先々まで決めなかった意図は、本当は違った。父が亡くなったとき、先々まで埋まった付き添い予定のカレンダーを見るのがいやだったからだ。

9月30日

母からの報告によれば、父が水を飲むときに「遊牧民です」と言ったらしい。そうですかと応えたそうだが、一体どういう気分になっていたのか。痛み止めのモルヒネがかなりの量投与されていたので、意識ももうろうとしていたのかもしれない。

10月1日

この日は俺が付き添った。普段は黒い服ばかり着ている俺だが、この日ばかりはどうしても黒を着る気分になれなかった。父の死が間近であるという事実にあらがうように、あえて明るい服を選んで出かけた。

付き添うと言っても、医療的なことはほぼ看護師まかせ。「体を動かしてくれ」「水飲みたい」「おしっこ」この3つくらいしか、父からの要求はない。それ以外の言葉を聞くこともない。もちろん会話はできなかった。唯一、体を動かしているときに思うような方向で無かったのか「違う、ばか!」と言われた。俺への意思を持って発した言葉は、それくらいだった。

夕方、伯父が来た。なんだか色々しゃべり通しだったが、この伯父は苦手なのでほとんど適当に相づちを打っていたので、何を話していたかは記憶にない。

ただひとつ驚いたのは、まわりであれだけ賑やかに喋っていても(伯父は本当にどうでもいいことをしゃべり通しだった)何の反応もしなかった父だが、夕方の回診の際に主治医から呼びかけられると、目を開けて「こんばんわ」と挨拶したのだった。あんなにしっかりと目を開けたのも、あんなにしっかり発音して喋ったのも、この日はそれだけだった。俺も父の主治医を信頼して治療に付き添ってきたのだが、父自身も信頼し、主治医を好きだったのだなと思った。

しかし、俺には「ばか」で主治医には「こんばんわ」かよ。そう思わないでもなかった。

10月2日

母から電話がかかったのは、4:13のことだった。

「お父さんが息してないの」

泣きながらの電話に「すぐ行く」とだけ答えて、着替えてクルマを飛ばした。うちから病院までは普通に走っても10分はかからない。明け方の空いている道路。急いでも急がなくてもさして変わらないとわかっていても、法定速度などにかまっていられなかった。

病室に着くと、父の右手を握りしめながら「お父さん!お父さん!」と必死に呼びかけている母の姿があった。父は呼吸をやめていたが、心臓はまだ脈打っていた。母とは反対の手を握りしめ、手首の血管が脈打つ力が、次第に弱くなっていくのをただただ感じていた。

父はこれまで、人としての生き様をしっかりと俺に見せてくれた。今、人間として最後の生を、そして死を俺に見せようとしている。父に呼びかけ続ける母の声を聞きながら、俺はそんなことを考えつつ、父の手を握りしめていた。

5:03、父は息を引き取った。

その後はバタバタと色々な手配が始まった。葬儀とは、身内を失った悲しみを忘れさせるためにこれほど多くの雑事を詰め込んであるのかもしれない。そう思うほど、色々な予定が一気に頭の中を巡った。これから数日、俺は喪主として色々な用事をこなさなければならない。お前が死んだせいでこれから大変だよ。遺体搬送車で父とともに実家に向かいながら、俺は心の中でそう語りかけた。

こんな夢を見た

2015年6月19日 11:37
約8ヵ月ぶりの日記かw
この8ヵ月の間は別のブログにぐだぐだと書き散らしているので、そのうち統合するかな。

それはさておき、最近は夢を見ることが多い。
今朝は、こんな夢を見た。

最初は、いとこと遊んでいた。戦車のプラモデルみたいなものを各々組み立てて、「ががー」とか言って走らせていた。子どものように。昔、ミニカーでそうして遊んでいたように。場所は、祖母の家のようだった。

遊び飽きてダイニングに行くと、父親が座って茶を飲んでいた。俺も一緒に茶を飲みながら、「そろそろ病院に行かなきゃ」などと話をしていた。実際に今日は、起きたら病院に行く予定だった。父親は「なぜ病院に行くのか」「どこの病院に行くのか」などと、知っているはずのことを何度も尋ねた。変だなと思いながら答えているうちに、父親の顔が真っ白になっていった。青ざめるというような白さではなく、漆喰のような白、脂汚れもさっぱりと落ちきった驚きの白さだ。会話を続けるうちに、顔中に赤い斑点が浮いては消えた。

そんなおかしな会話を続けているうちにダイニングのドアが開き、父親が現れた。昼寝から目覚めたようだ。こちらの父親は、見慣れた顔をしていた。いつからかダイニングで俺と父親の会話を聞いていた母親が、「あら、本物が起きてきたみたいよ」と冗談めかして言った。俺と会話をしていた方の父親が「あー、これじゃバレちゃうね」と言うので、「最初からわかっていたよ」と答えて笑った。

昼寝から目覚めた方の父親がダイニングに着席するまでに、さっきまで俺と会話していた方の父親はすーっと薄くなって消えていた。俺は父親に、「化けて出るときにおかしな顔色にならないよう、生きてる間に化粧を教わっておきな」と、笑いながら言った。父親は訳がわからないといった表情で俺を見返した。

そこで、目が覚めた。

父親の姿で現れて俺と会話をしたかったあの人は、誰だったのかな。そんなことを考えながら身支度をして、俺は病院に向かった。そんな、金曜日の朝。

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